- CONTENTS
- ご挨拶・経営理念・会社概要
- ヒストリー
- 事業所一覧
マルタケマークの由来
竹の文字を○で囲んだ“マルタケマーク”は、創業者田中竹二郎の名前にちなんで制定されました。「竹」のように地に深く根を張り地震にも耐える強さを、それを囲むマルはみんな仲良く大同団結して進もう、という思いが込められています。
マルタケマークの歴史は古く、制定は第二次世界大戦中、激動の時代にあってもこのマークのおかげで「マルタケさん」という愛称が生まれました。
その後、お客様にとってより親しみがあり身近な存在でありたい。そんな願いから、昭和46(1971)年に株式会社田中竹二郎商店から株式会社マルタケへ商号を変更し、ここに「マルタケ」が誕生したのです。
創業者
田中竹二郎 (1899年2月28日~1972年9月1日)
竹二郎の旧姓は小林で、田中は妻・千恵の姓です。婿養子として田中家に入った竹二郎は当時東京で内務省の役人をしていました。しかし役人は肌に合わないと故郷新潟に戻り、薬剤師の資格を生かして薬局を開業。これがマルタケのはじまりです。
竹二郎の好んだ言葉が「誠実」であり、さらにそれは竹二郎の人柄そのものだったといいます。社員から「お父さん」と呼ばれ、慈父の如く子を諭すように社員に接していた竹二郎。彼が積み重ねた「誠実」がマルタケの礎となり、その精神は今でもマルタケ社員に受け継がれています。
大正14年~昭和45年
(1925~1970)
- 大正14年(1925)6月
-
田中竹二郎 新潟市営所通1番町において田中薬局を創業し、医薬品卸・小売業を開業する
創業当時、竹二郎はおにぎりを片手に朝早くから暗くなるまで自転車で得意先を駆けずり回っていた。妻・千恵と二人三脚で一つひとつ得意先を築き上げていった。当時を知る医師はこんな思い出を語っていた。
「戦時中は物資が不足し、医薬品、医療機器も配給制となった。体温計一つ買うにも『米一升持って来い』と言われなかなか売ってもらえなかった。そんな時でも竹二郎氏は物もとらず定価のまま売ってくれた・・・それ以来、戦争から帰ってきて開業しても薬はマルタケと決めている」
※田中竹二郎 追悼集より
-
- 昭和25年(1950)2月
-
株式会社田中竹二郎商店 法人に改組
当時は三輪自動車1台と自転車が数台あるのみ。荷物が到着すると店の前に積まれ、夕方5時以降に裏の倉庫まで社員全員で肩に担いで運んだ。
-
(写真)昭和27年頃の田中薬局
- 昭和30年(1955)頃
-
製薬メーカーによる全国の卸を集めた会合が頻繁に行われた
-
- 昭和32年(1957)1月
-
新潟県医薬品卸協同組合設立 初代理事長に田中竹二郎 就任
- 昭和33年(1958)9月
-
新潟県小千谷市に連絡所を開設する(後に長岡店となる)
- 昭和34年(1959)1月
-
医療器械部門を分離独立し、株式会社マルタケ医療器械店 設立
- 昭和35年(1960)1月
-
山形県酒田市に酒田出張所を開設する
当時、田中薬局は新潟大学医学部の近くに店舗を構えていた。それがご縁となり、郷里に帰られた先生からもご注文をいただくようになり、徐々に商圏が新潟県外へ広がっていった。
-
(写真)酒田出張所
- 同年9月
-
東京都千代田区に東京出張所を開設する
特殊薬品部門を分離独立し、田中竹商事株式会社を設立する
- 昭和36年(1961)1月
-
新潟県直江津市に直江津営業所を開設する(後に上越店となる)
- 昭和38年(1963)5月
-
不動産部門として、マルタケ不動産株式会社を設立
- 昭和39年(1964)5月
-
マルタケビル完工する
1~3階をマルタケデパートとし他はオフィスビルとしてスタート。製薬メーカーや当社の営業部門が入居していた。
竣工後、まもなく新潟地震が発生したが、幸いなことにビルの被害はほとんどなかった。
-
- 同年6月
-
新潟地震
新潟県の粟島南方沖を震源として発生した地震である。地震の規模はマグニチュード7.5。
当社の建物は無事だったが、薬品のガラス瓶が割れたり、倉庫が水浸しになるなどの被害があった。
-
- 同年12月
-
仙台市に仙台支店を開設する
- 昭和42年(1967)8月
-
酒田支店の管轄として秋田県に能代営業所を開設する
- 同年11月
-
新潟市上所に本社・新潟店・発送センターを新築する
本社を新築した際、専用のガソリンスタンドも設置された。また本社社屋の向かいには広い駐車場があり、ここで運動会を開催したこともあった。
-
- 昭和45年(1970)10月
-
FACOM230-25電子計算機を導入する
給与計算や売掛管理および販売統計、売上伝票の発行をコンピューター処理することで、商品管理や売上管理の手間と時間は大幅に軽減された。
-
田中竹二郎 新潟市営所通1番町において田中薬局を創業し、医薬品卸・小売業を開業する
創業当時、竹二郎はおにぎりを片手に朝早くから暗くなるまで自転車で得意先を駆けずり回っていた。妻・千恵と二人三脚で一つひとつ得意先を築き上げていった。当時を知る医師はこんな思い出を語っていた。
「戦時中は物資が不足し、医薬品、医療機器も配給制となった。体温計一つ買うにも『米一升持って来い』と言われなかなか売ってもらえなかった。そんな時でも竹二郎氏は物もとらず定価のまま売ってくれた・・・それ以来、戦争から帰ってきて開業しても薬はマルタケと決めている」
※田中竹二郎 追悼集より
株式会社田中竹二郎商店 法人に改組
当時は三輪自動車1台と自転車が数台あるのみ。荷物が到着すると店の前に積まれ、夕方5時以降に裏の倉庫まで社員全員で肩に担いで運んだ。
(写真)昭和27年頃の田中薬局
製薬メーカーによる全国の卸を集めた会合が頻繁に行われた
新潟県医薬品卸協同組合設立 初代理事長に田中竹二郎 就任
新潟県小千谷市に連絡所を開設する(後に長岡店となる)
医療器械部門を分離独立し、株式会社マルタケ医療器械店 設立
山形県酒田市に酒田出張所を開設する
当時、田中薬局は新潟大学医学部の近くに店舗を構えていた。それがご縁となり、郷里に帰られた先生からもご注文をいただくようになり、徐々に商圏が新潟県外へ広がっていった。
(写真)酒田出張所
東京都千代田区に東京出張所を開設する
特殊薬品部門を分離独立し、田中竹商事株式会社を設立する
新潟県直江津市に直江津営業所を開設する(後に上越店となる)
不動産部門として、マルタケ不動産株式会社を設立
マルタケビル完工する
1~3階をマルタケデパートとし他はオフィスビルとしてスタート。製薬メーカーや当社の営業部門が入居していた。
竣工後、まもなく新潟地震が発生したが、幸いなことにビルの被害はほとんどなかった。
新潟地震
新潟県の粟島南方沖を震源として発生した地震である。地震の規模はマグニチュード7.5。
当社の建物は無事だったが、薬品のガラス瓶が割れたり、倉庫が水浸しになるなどの被害があった。
仙台市に仙台支店を開設する
酒田支店の管轄として秋田県に能代営業所を開設する
新潟市上所に本社・新潟店・発送センターを新築する
本社を新築した際、専用のガソリンスタンドも設置された。また本社社屋の向かいには広い駐車場があり、ここで運動会を開催したこともあった。
FACOM230-25電子計算機を導入する
給与計算や売掛管理および販売統計、売上伝票の発行をコンピューター処理することで、商品管理や売上管理の手間と時間は大幅に軽減された。